上平 梅径

上平梅径 1964 -

上平梅径は確立された書道家というだけではなく日本伝統文化の普及の第一人者、そして書道ライブパフォーマーとしても名を馳せている。書道界で活躍する彼の友人たちである高名な書道家たちと同じく普段の彼は伝統的なスタイルを重んじるが、新しい素材、形、筆等を使い書道の可能性を広げるイノベーターとしての顔も持っている。

30年以上もの指導経験を持つ彼は、今後世界を視野に入れ精力的に書道家活動を続けていくことを誓っている。

1964年6月28日、上平達義として、大阪は泉佐野に生を受けた梅径は書道家としてだけではなく、大阪にある青霄書法会の主宰でもある。

書の芸術性に惚れ込み、それのみを追求したどり着いた境地は、他分野のアーティストたちとのコラボ、アート書道、ライブパフォーマンスという新たな書の可能性であった。梅径はライブ書道という新しい分野の先駆者であり、この美しく素晴らしい日本の伝統文化を世界中に広げていくために常に新たな可能性を追求していく。

幼少期〜青年期

梅径は6才の時に習字を始めた。しかし他の子供たちと違ったのは彼がどんどん習字にのめり込み受験等の時にも書を辞めずに高校時代も稽古に明け暮れたことだった。18才の時に彼は「零夢」というロックバンドで活動していたが音楽だけで生活していく事の難しさに直面しそれ以外の道を考え始めた。そしてこの時期に本格的に書の道を追い求めることを決意した。書道で名のある大学を目指すも2度失敗し、カフェのウェイターや父の土建のアルバイトで食いつなぐも、もう後がなくなった時・・・彼は父にこう言った『将来は書で食べてゆく!』とそして父は『筆をぶらぶらさせて食っていけるんだったらやってみろ!』と一笑した。その後彼は上京し目黒にある日本書道専門学校に通い始め、中国・日本書道史、書道慨論、古典臨書など徹底的に学ぶ事になる。


東京で学校に通いながら、稽古に明け暮れる毎日を過ごし始めた梅径はアルバイトと勉強の両立をしながら、朝まで稽古に励む毎日が続いた。そんな彼の努力とは裏腹に学校の先生たちの生徒に対する情熱や熱意に疑問を持ち始めていた。自分の事をもっと真剣に指導してくれる師匠を求めていた。

そんなある日、梅径は教授であった書道家望月虚舟に自分の作品を見てもらった。望月はひとつひとつ注意深く上平の作品を見、的確なアドバイスをおくった。上平はその姿に感銘を受けますます書に励む事となる。しかしある事情から心に傷を受けた上平は22歳の時に大阪に戻ってくることになる。そしてその後は書道用品の店で働いていたのだが、その当時常連として来ていた一人の書道家に誘われ書の修行を再開する事となった。 関西では名の知れている書道団体でその後8年の年月をかけて書を極めて行く事になる。そしてこの期間に彼は多くを学び、その後のヴィジョンを明確にして行った。

 

青霄書法会設立

29歳の時青霄書法会を設立しその後大阪難波、心斎橋、梅田と主要エリアに書道教室を展開していった。現在も指導、パフォーマンス、講演等精力的に活動している。現在同じく書道家である妻と3人の子供と共に大阪に在住している。書道教室では2,000人以上もの生徒が現在練習に励んでいる。

 

 

青霄 | www.sei-sho.jp

書道会の名前でもある「青霄」とは、雲一つなき青空の意味を持ち、書道家が自由に表現する事のできる真っ白い紙面としての空、書に取り組む時に静穏を得ることのできる自由で曇(邪心)なき心としての空、無限の可能性を秘めた領域としての空、とこの様なメッセージが込められている。そしてこれは美の追求であり、自己成長への道であり、夢の実現のために広がる無限の可能性を示唆するシンボルである。

今日、2,000人以上の生徒を抱える青霄書法会は、30年前に初めて教えた頃と同じ情熱で初心を忘れることなく上平は書のビジョンを広めていっている。